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東京高等裁判所 昭和55年(行コ)107号 判決

控訴人(被告) 東京都教育委員会

訴訟代理人 都築弘 田中一泰 外一三名

被控訴人(原告) 東京アンティーク・アームズ株式会社

主文

原判決を取り消す。

被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

控訴代理人は、主文同旨の判決を求め、被控訴代理人は、「本件控訴を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

第二当事者の主張

当事者双方の主張については、次に付加するほか、原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する。

一  控訴代理人の主張

1  登録制度採用の歴史的経緯

銃刀法一四条が古式銃砲について登録制度を採用するに至つた歴史的経緯は次のとおりである。

(一) 日本がポツダム宣言受諾後、連合国占領軍は一般命令第一号(昭和二〇年九月二日)一一項によつて「日本国大本営及日本国当該官憲ハ連合国占領軍指揮官ノ指示アル際、一般日本国民ノ所有スル一切ノ武器ヲ蒐集シ且引渡ス為準備ヲ為シ置クヘシ」との命令を発し、これに基づいて当時の内務省警保局は全国の警察官署に対して、一般国民の所有するすべての刀剣類についてそれを提出させるべく措置を講じた。但し、美術的、骨とう的価値ある刀剣は、警察署に登録し、提出の用意をなすに止め、中央より改めて指示のあるまで一応蒐集を見合わせることにした。その後、数次にわたる民間武器引渡に関する指令が出され、連合国占領軍による武器の回収がすすめられてゆく過程において、国宝ないし重要美術品等に当たる刀剣類のうち美術刀剣として回収を免除されるものがあつたが、昭和二一年五月になつて、連合国占領軍は美術品に当たるか否かの判定を日本側に委ねるとともに、昭和二一年六月一日付で銃砲等所持禁止令(昭和二一年勅令第三〇〇号)が公布された。この勅令によつて都道府県知事は刀剣審査委員会の鑑定を経て、美術品として価値のある刀剣類について所持許可を与えることとなり、現行の登録制度の前身が出来あがつた。

本件で問題となつている古式銃砲も、日本刀等の刀剣類と同じく、前記一般命令によつて、連合国占領軍に引渡されるべき運命にあつた。以下においては、現行の登録制度に至る過程を、とくに火なわ銃砲等古式銃砲に焦点をしぼつて検討する。

(二) まず、一般命令を受けた内務省は、昭和二一年末に、第八軍を通じて、連合軍総司令部あてに、当時、帝室博物館(現在の東京国立博物館)に保有せられていた火なわ銃一一挺、山口博物館(現在の山口県立山口博物館)に保有せられていた火なわ銃五挺並びに各府県からの回答による旧大名、士族等身元の確実な個人所有の火なわ銃五二挺について、そのまま所有者の手元での保有を許可されたい、もし所有者個人の保有が許されないのであれば、最寄りの博物館に集めて保存することを許可されたい旨の要請を行つた。右要請を受けた連合軍総司令部は昭和二二年三月二七日付「日本民間人の武器引渡に関する指示」(SCAPIN一五八六号)と題する文書(以下、「SCAPIN一五八六号文書」という。)を発し、その中において、「日本帝国政府は第八軍司令官及極東海軍司令官発の指示に従ひ民間人より凡ての火器刀剣銃剣短刀其の他の武器、弾薬、火薬類及其の材料を集め之を米軍代表者に引渡すべし」と日本政府に対して命令を発したのであるが、その中で例外として「古美術品と認められる火縄銃式火器」については、個人による所持を認めることとした。このSCAPIN一五八六号文書が例外的に一定範囲の火なわ銃式火器について個人に保有を許したのは、前記内務省から連合軍総司令部あてになされた要請を連合軍総司令部が受け入れたがためであることは明らかであり、また、この時点において現在の火なわ銃等古式銃砲の登録による個人所持制度の前身が出来あがつたということができる。昭和二二年五月二一日、右に基づき個人の所持について、銃砲等所持禁止令の一部改正が行われ、それまでSCAPIN一五八六号文書で使用されていた「古美術品と認められる火縄銃式火器」との文言は、「火縄銃式火器のうち骨董品又は美術品として価値あるもの」とされ、地方長官(昭和二三年三月六日の同令の一部改正により、公安委員会となる。)の許可制が規定された。

(三) ついで、昭和二五年五月二九日、最高司令官代理から「日本民間人所有の武器引渡に関する指令」が出され、この指令によつて、従来の銃砲等所持禁止令は廃止され、新たに昭和二五年一一月一五日付で銃砲刀剣類等所持取締令(昭和二五年政令第三三四号)が制定された。この政令の施行によつて、従来公安委員会の下で許可制が採られていた美術的価値のある刀剣類及び火なわ銃式火器の取扱いは、文化財保護委員会の登録制に改められ、その事務は都道府県の教育委員会が取り扱うこととなつた。右昭和二五年の制度改正の趣旨は、「美術品として価値のある刀剣類及び火なわ銃式火器」については、その取扱いを著しく簡易化するとともに、終戦直後の時点で連合国占領軍から、武器、凶器とみなされたことによる取締り規制の観点から、わが国の文化財の保護という文化的な観点に重点が移行されたことにある。

(四) 昭和三三年三月一〇日、銃砲刀剣類等所持取締令が廃止され、銃砲刀剣類等所持取締法(昭和三三年法律第六号、以下、「昭和三三年銃刀法」という。)が制定され、同法一四条において旧取締令の「火なわ銃式火器」が「火なわ式銃砲」と改正された。

なお、右昭和三三年銃刀法の制定は、暴力団等において、旧取締令の関係規定の不備に乗じて銃砲刀剣類を悪用する者が見受けられたので、危害予防上必要な範囲で改正が行われたのであるが、火なわ式銃砲については従前同様、文化財保護の見地から登録事務を運用していくこととしている。

2  古式銃砲としての火なわ銃の定義

(一) 以上のように、昭和二二年のSCAPIN一五八六号文書に端を発した火なわ銃等古式銃砲の個人保持制度は昭和三三年銃刀法に引き継がれているが、ここで注意すべき点は、右古式銃砲の具体的な枠づけ解釈が、SCAPIN一五八六号文書において了解せられた内容と何ら変容していない点である。

(二) そこで、同文書のいう「古美術品と認められる火縄銃式火器」の意義であるが、それは、右文書によつて例外的に個人による保有が許されるに至つた内務省からの連合軍総司令部あての「歴史的価値高い「火縄銃」の保有許可要請に関する件」と題する文書(以下、「要請文書」という。)に記載されている内容によつて明らかにされ、枠づけられる。

右要請文書の関係部分は次のとおりである。

「歴史的価値高い「火縄銃」の保有許可要請に関する件

一  連合国最高司令官の覚書にもとづいて、日本政府に於ては、終戦以来引続き日本民間人の保有する刀剣類、銃砲等一切の武器類を回収して、引渡しをしている次第であるが、次に記載する「火縄銃」は左の理由により特別に民間に保有することを許可せられんことを要請する次第である。

二  「火縄銃」の説明

a  弾丸を銃身の先から込め、火縄を用いて発火させる銃砲を「種子ケ島」、「火縄銃」、「鳥銃」という。

鉄砲が始めて日本に伝わつたのは天文十二年八月(一五四三年)であつて、薩摩の種子ケ島に漂着した「ポルトガル人」が所持していたのを、種子ケ島の島主、種子ケ島時堯が金二千両をもつて二挺を購い、珍らしい家の宝として大切に取扱い、家臣に命じて火薬を製造する方法を学ばせた。以来、種子ケ島時堯及びその「けらい」は、絶えず、此の世にも珍らしい器械を研究し、製造しようとしたが、其の形は大層似たものが製造できるようになつたが、銃身の底を塞ぐ方法を知らず、完成の目的を達することが出来なかつた。其の翌年上述の「ポルトガル人」が再び種子ケ島の熊浦に来り、その内の一人に鉄匠がいた。種子ケ島時堯は、八坂金兵衛清定というけらいをその鉄匠の弟子として、銃身の底を塞ぐ方法を学ばせ、始めて数十の鉄砲を製造するに至つた。日本に於て欧式の小銃を造ることになつたのは之が始めてである。その当時の人で、紀伊の国根来寺の僧に「杉之坊」という者が居つて、この鉄砲の話を伝えきいて、わざわざ種子ケ島へ行き、種子ケ島時堯に鉄砲の製造方法を教えて呉れと懇願した。時堯は僧「杉之坊」の志に感心し、喜んで銃一挺を分与し、「火薬のつくり方」と「発火の方法」とを教えた。其の後、和泉堺浦の商人に橘屋又三郎という者が居り、三ケ年間種子ケ島に往つたり来たりして、銃の製造技術を習得して帰国した。之を原因として、銃砲は近畿地方の諸国の者が伝習し、それがだんだんひろまつて遂に日本国中に伝わるに至つた。火縄銃は、爾来「オランダ」より新式銃(控訴人注、ここでいう新式銃とは主にオランダ人により持ち込まれた火なわ銃以外の古式銃砲を指す。)が日本に伝えられた徳川幕府の末の頃迄用いられたのである。

b  「火縄銃」は、日本に於て製造された数量は僅かであつて、又極めて高価なものであつたので、特殊のものを除いて大名以外は所有することができなかつた。明治時代になつて新式の兵器ができるようになつてから、「火縄銃」はますますその数を減じ今次終戦以来、僅かに残つていたものも全部提出し、次に記載するもののみが残された最後のものである。

この「火縄銃」は、現代に於ては武器としての役目は全く失われ、ただ歴史的価値を有するのみであり、今後ふたたび手に入れることのできない珍品であるから特に厚意ある取扱いによつて、之だけは民間に保有することを許可せられたくおねがいする次第である。(以下略)」

すなわち、「古美術品と認められる火縄銃式火器」とは、右の要請文書のうち、二a欄の後段及びb欄の文言から判断せられるように、

1 日本の歴史、とりわけ日本の合戦史及び銃砲史にとつて歴史的価値を有するものであり、今後ふたたび手に入れることのできないものであること

2 銃として実際に用いられた時期は外国より火なわ銃式以外の古式銃砲が日本に伝えられた徳川幕府末期までであること

3 現代においては武器としての役目が全く失なわれているものであること

以上の三要件を備えていることが要請されるのである。

いいかえれば、登録規則四条一項本文で述べる「日本製銃砲にあつてはおおむね慶応三年以前に製造されたもの、外国製銃砲にあつてはおおむね同年以前に我が国に伝来したもの」が、SCAPIN一五八六号文書でいう「古美術品と認められる火縄銃式火器」であり、昭和二二年五月における銃砲等所持禁止令一部改正で規定された「火縄銃式火器のうち骨董品又は美術品として価値あるもの」なのである。

(三) 火なわ銃式火器についての右の考え方は、昭和二五年一一月制定の銃砲刀剣類所持取締令においても、また昭和三三年銃刀法においても引き継がれており、何ら変容されなかつた。

すなわち、前記SCAPIN一五八六号文書における「古美術品と認められる火縄銃式火器」との文言は、銃砲等所持禁止令一条五号において「水縄銃式火器で骨董品又は美術品として価値のあるもの」との規定を経て、銃砲刀剣類等所持取締令七条一項において「美術品若しくは骨とう品として価値のある火なわ銃式火器」と規定せられ、更には昭和三三年銃刀法一四条一項において「美術品若しくは骨とう品として価値のある火なわ式銃砲」と規定せられるに至つた。しかるに、これらの規定の間において、火なわ銃式火器ないし銃砲の意味、内容はその解釈において、何ら変容していないのである。それはとりもなおさずSCAPIN一五八六号文書における「古美術品と認められる火縄銃式火器」に示された考え方をそのまま引き継ぐものであつた。このことは昭和三三年三月三一日文化財保護委員会事務局長等から都道府県教育委員会教育長等宛の「銃砲刀剣類所持取締法の施行に伴う登録銃砲刀剣類の取扱について」において「法第十四条第一項の規定による登録を受けた銃砲又は刀剣類は、文化財保護の見地から慎重な取扱を要するものであるから、これらについて危害予防上必要な規制を加えるにあたつては、法第一条の趣旨にかんがみ慎重な配慮を加え、善良な国民の文化財保護の精神を阻害することのないよう留意すること。」とあることからもうかがわれる。この点、日本刀について、美術品として価値のあるものである限り製作年代についての限定がないのとは取扱いが大きく異なつている。すなわち、日本刀については鍛練技術が、世界に誇る日本の伝統的技術として、他国には存在しない歴史を有していること、このため、現在でも刀匠の中には日本の伝統的技術保持者として重要無形文化財、いわゆる人間国宝として指定された者がいること、そして、このような伝統的技術の保存を図る観点からも、日本刀については、それが文化財保護の見地からみて重要な作品である限り、製作年代を問わず、登録によつて個人が所持し得るとされているのとは取り扱いが異なるのである。

(四) その後昭和四〇年法律第四七号によつて、昭和三三年銃刀法一四条一項のうち「火なわ式銃砲」とあるのが「火なわ式銃砲等の古式銃砲」と改正された。この改正の趣旨は、これまでは古式銃砲のうち火なわ式銃砲のみを登録の対象としていたのであるが、火なわ式以外の火打石式、管打式等の古式銃砲についても、美術品もしくは骨とう品として価値のあるものがあり、かつ、これらの銃砲は現在実用に供されることがないので、火なわ式銃砲と同じく我が国の文化財として登録して保存していくことが必要とせられたのである。すなわち、新しく加えられた火打石式、管打式等の古式銃砲は、幕府及び諸藩が装備の近代化の要請に迫られて、主に外国から購入して準備し、実用に供し明治初期には実用性を失つたものであり、幕末期の我が国の歴史特に銃砲史、合戦史上貴重な資料的価値を有し、以後日本国内で丁重に保存してきたものであつた。しかるに従来の法律の建前からすると、これらはいずれも登録することができないため、これを個人が持つていることは不法所持となるという不都合を生ずることから、昭和四〇年の時点で登録の対象に加え、一般に所持を認めることとし、我が国の文化財たる史料として、保存活用を図ろうとしたものである。

(五) 昭和四〇年改正の時点で始めて「古式銃砲」という用語が条文の中で用いられたのであるが、同条でいう「古式銃砲」とは、当時、実際に改正案の作成に当たつていた文化財保護委員会美術工芸課の解釈によれば次のとおりである。

「一 現在実用に供せられている銃砲は、すべて元込め式で、かつ金属製薬莢を用いるものであり、これと区別して、これ以外のもの(先込め式、または元込め式であつても金属製薬莢(その後端上部に、かに目状の雷管を装置したものを除く。)を用いないもの)を便宜「古式銃砲」と総称することができる。

元込め式でかつ金属製薬莢を使用する実用銃砲は、外国においては、すでに一九世紀前半から出現し、わが国においても、村田銃(明治一三年、一八八〇年の考案)によつて実用に供せられることとなつたものであり、したがつて古式銃砲はすでに約一〇〇年前から非実用的なものとなつていたものである。(以下略)」。

つまり、古式銃砲とは便宜的な総称概念であるが、明治初期において、すでに現実には使用されなくなつた火なわ式等の銃砲を総称したものである。この昭和四〇年の法律改正により、火なわ式のほか、火打ち石式のもの、管打ち式のもの、かに目式のもの等の古式銃砲が登録対象としてつけ加えられたが、日本における製作年代ないし、外国から我が国への伝来年代については、前記「要請文書」の考え方をそのまま踏襲していることに注意すべきである。この点、昭和四〇年改正の時点での昭和三三年銃刀法一四条一項の文言ならびに同時点での改正にかかる旧規則四条一項の文言において、古式銃砲の製造ないし伝来に関する規定が明記されていなかつたとしても、そのために古式銃砲の製造ないし伝来についての従前の考え方に何ら変容はないのである。

このことは「昭和四十年七月十五日文化財保護委員会事務局長から、各都道府県教育委員会教育長あて通知」II1(1)アに記載されている古式銃砲は、いずれも江戸時代末期までに伝来したものであることが示されている上に、同II1(1)イには、旧規則四条一項二号の「前号に掲げるものに準ずる銃砲」とは、アに掲げる以外のもので、おおむね一八六七年(慶応三年)以前に製造された古い銃砲をいうと、明確に規定されていることからも確認することが出来る。

3 昭和五〇年三月一七日文部省令第四号による銃砲刀剣類登録規則改正の理由

(一) 古式銃砲につき登録制度が設けられた歴史的経緯及び古式銃砲の意義・内容等は右に述べたとおりであるが、右古式銃砲とは、前述のSCAPIN一五八六号文書以来現在までの一貫した解釈として、

(1) 日本の歴史、とりわけ日本の合戦史、銃砲史にとつて歴史的価値を有するものであること。

(2) 銃として用いられた時期は幕末までであること。

(3) 現代においては武器としての役目は全く失なわれていること。

の三要件を具備しているもの、すなわち我が国の文化財に限るのである。

したがつて、昭和二五年の銃砲刀剣類等所持取締令の制定に当たつては、その七条一項において「文化財保護委員会は、美術品若しくは骨とう品として価値のある火なわ銃式火器又は美術品として価値のある刀剣類の登録をするものとする。」と定め、従来、美術品もしくは骨とう品として価値のある火なわ銃式火器について、その所持許可を公安委員会から受けていたものを、同令において文化財としての保護活用の観点から文化行政事務を担当する文化財保護委員会に移管し、同委員会により登録を受けることにより、何人もこれを所持し得るようにしたのである。

ところで、文化庁(文化財保護委員会の後身)は文部省の外局たる行政機関であり、文化財の保存及び活用、文化財に関する調査研究等を通し、国民の文化的向上に資するため、必要な事務を行うことを任務としている(文部省設置法二九条、三五条及び文化財保護法一条参照)。右権限からも火なわ式銃砲の登録事務を文化庁長官に属させていることは十分な合理性を有するのである。

(二)(1) 昭和三三年三月一〇日の銃刀法の制定は、従来の所持取締令を廃止したものであるが、その要点は古式銃砲以外の銃砲について、危害予防上の見地から、所要の規制を加える必要が生じたためであり、古式銃砲についていえば、登録の対象となる「火なわ銃式火器」の表現を、同法では、「火なわ式銃砲」と変えたのみで「美術品若しくは骨とう品として価値のある」の用語は同一であり、その内容には何らの変更もない。

(2) 昭和四〇年四月一五日改正の銃刀法において、銃砲の登録対象を火なわ式銃砲のほか、火打ち石式、管打ち式、紙薬包式、ピン打式等の古式銃砲に拡大し、「美術品若しくは骨とう品として価値のある火なわ式銃砲等の古式銃砲」と規定した。

これは前記2の(四)に説明した如く、文化財としての銃砲の種類を拡大し、資料として保存活用することを図つたものであり、SCAPIN一八五六号文書において所持を認めた理由と同一の趣旨で規定されているものであつて、文化財としての銃砲の範囲の拡大以外には古式銃砲の解釈には何らの変更もないのである。

(三) ところで旧規則四条一項に、「外国製銃砲にあつてはおおむね慶応三年以前に我が国に伝来したもの」である旨の時期に関する規定を設けなかつたのは、当時においては、外国製の古式銃砲が、新たに輸入されるなどという事態は全く予想もしていなかつたからである。もし、昭和四〇年当時において新たに輸入された外国製古式銃砲が存在し、登録鑑定に際して疑義が生ずるおそれがあつたならば、当然に旧規則の制定時に現行の登録規則と同趣旨の文言が加わつていたはずである。このことは、元来、慶応三年以前に製造され(日本製の場合)、あるいは伝来(外国製の場合)したものに限るということが、銃刀法一四条の趣旨にそうことからも明らかである。

しかるに、たまたま昭和四九年七月大阪市西成区において暴力団による短銃乱射事件が発生したが、その際使用された短銃の中に、一八〇〇年ころ米国で製造され新たに輸入された古式銃が含まれており、これが登録された上、暴力団に渡つていた事実が判明したり、同年九月神奈川県において右翼団体幹部宅を銃刀法違反により捜索したところ、米国から新たに輸入された登録済みの古式銃が多量に発見されるなどの事例が発生した。さらに昭和四四年ころから、いわゆるアンテイーク・ブームが起こり、外国製古式銃砲が輸入され始め、昭和四八、九年ころには輸入業者らの手によつて輸入される外国製古式銃砲が多くなつてくる事態が生ずるに至つた。そこで銃刀法一四条の本来の解釈に基づく適正な運用の徹底を図るため、昭和五〇年三月一七日付けで登録規則を改正し、古式銃砲の製造及び伝来の時期に関する鑑定基準の明確化を行つたのである。

(四) なお、古式銃砲については、所持許可ではなく登録をもつて足りるとしている(銃刀法三条一項六号、一四条)。

銃砲は一般に、何人も所持を禁止されており(同法三条一項本文)、銃刀法三条一項各号のいずれかに該当する場合にのみその禁止が解除される。その場合の一つである都道府県公安委員会による所持許可については、所持の目的のみならず所持者についても規制している(同法五条一項各号)。これに対し、登録は所持の目的ないし所持者の資格を問わないのであり、危害予防上必要な規制をしようとする銃刀法四条一項各号の許可とは全く異なる視点に立つているものであり、このことは我が国の文化財を保存し活用するという目的から出ているものである。

(五) そうすると、銃刀法一四条一項にいう「美術品若しくは骨とう品として価値のある火なわ式銃砲等の古式銃砲」とは、日本製銃砲にあつてはおおむね慶応三年以前に製造されたもの、外国製銃砲にあつてはおおむね同年以前に我が国に伝来したものと解すべきである。したがつて登録規則四条一項本文が、古式銃砲について「おおむね慶応三年以前に我が国に伝来したもの」と規定した趣旨、理由は以上の経緯に基づくものであつて、登録制度本来の趣旨に副つて従来の鑑定基準を明確化したにすぎないものであるから、右は銃刀法一四条一項の趣旨に合致しこそすれこれを逸脱するものではなく、まして銃刀法一四条五項の委任の範囲を超えるものではない。

4 本件短銃は銃砲発達史上資料的価値を有する古式銃砲ではない。

(一) 古式銃砲と言い得るためには、製造当時の社会において一般的な実用に供されることを前提として製造されたことを必要とするのであり、したがつて古式銃砲であるかどうかの認定に当つては、形式構造のみならず当該銃砲の製造年代もまた重要な意味をもつものである。また、当該古式銃砲が銃砲発達史上価値を有すると言い得るためには、当該銃砲の形式構造が製造当時の銃砲の発達等に大きな影響を与えたか、少くとも当時の社会において一般的に使用されて大きな役割を果した等の事実を必要とするものである。

(二) 本件短銃はピン打ち式銃であり、一八七八年以降に製造されたものであるが、ピン打ち式銃は一八三〇年代に開発され、一八六〇年代までの時期に実用に供されていたものであつて、実用に供するために製造された年代も一八六〇年代までの時期に限られるものである。本件短銃がこのピン打ち式銃の実用時期をはるかに過ぎて製造されたものであることは明らかであり、しかも、当時のような銃の急速な発達期におけるこのような製造時期のずれは、銃砲史上いわゆる古式銃砲の範囲からみて、本件短銃が銃砲史上にいわゆる古式銃砲に含まれるものであるかどうか極めて疑わしいうえ、当時の銃砲の発達等に大きな影響を与えたり、当時の社会において一般的に使用されて大きな役割を果した等の事実がないことは明らかであるから、本件短銃は銃砲発達史上資料的価値のあるものと言えないことは明白である。

二  被控訴代理人の主張(反論)

1  「登録制度採用の歴史的経緯」について

控訴人の主張する「終戦直後の時点で連合国占領軍から武器、凶器とみなされたことによる取締の観点から、文化財の保護という文化的な観点に重点が移行された」という歴史的経緯こそ、正に銃刀法一四条一項を解釈する上に重要である。即ち美術刀剣類並びに古式銃砲(当時は火なわ式銃砲のみ)については、これを武器、凶器としての側面よりも、美術品としての側面が重視され、その当然の帰結として所持について許可制から登録制へと取扱いが改められたことは、取りも直さず、美術刀剣、古式銃は、文化財としての価値を優先させるとの基本的な考え方が確立されたことを意味するのである。そして、このことが同時に文化財保護委員会の意思に合致するものであることも、控訴人が主張しているとおりである。しかして、その美術品としての価値の尊重、文化財の保護の精神こそが銃刀法一四条一項の解釈にも生かされるべきものなのである。

2  「古式銃砲としての火なわ銃の定義」について

控訴人の主張する要請文書が存すること及びそこに記載された趣旨から、三つの要件が導かれることについては、特に争うものではない。控訴人は、右要請文書及びSCAPIN一五八六号文書にいう「古美術品と認められる火なわ銃」イコール登録規則四条一項本文の「日本製銃砲にあつてはおおむね慶応三年以前に製造されたもの、外国製銃砲にあつてはおおむね同年以前に我が国に伝来したもの」である旨主張する。ところが右要請文書並びにSCAPIN一五八六号文書、昭和二二年の銃砲等所持禁止令一部改正による規定はいずれも、火なわ銃のみを念頭において作成されたものであり(火なわ式銃以外の古い銃をも含めた「古式銃砲」という用語が条文で用いられたのは、昭和四〇年の銃刀法改正においてであることは、控訴人の主張するとおりである。一方登録規則は、その後昭和五〇年の銃刀法第一四条の改正に伴い、火なわ銃以外の古式銃をも登録対象とした後に作成されたものである。いわば古式銃に対する概念そのものが、全く異なつている状況の中でそれぞれ作成されたものであるから、これを全く同じもの、と主張する控訴人の論理はいささか無理があるといわざるを得ない。さらに、ここで留意すべきは、右要請文書並びにそれに続くSCAPIN一五八六号文書は、昭和二一年、二二年という敗戦直後の時期において、占領国側から被占領国に対する完全な武装解除の実施という過程において発せられたものであるという点である。特に要請文書は、敗者が勝者に対し、特に恩恵的取扱いをお願いするという、いわば特殊状況下で作成されたものであり、その内容は対象、数量、保存方法等いずれも限定的である。したがつてこのような時代の文書の趣旨が、そのまま、昭和四〇年代において前述のように古式銃の範囲が拡大され、その取扱いも武器、凶器から文化財へと変化している中で適用するとは到底考えられない。

以上のことから、古式銃とはおおむね一八六七年以前に製造されたものもしくは伝来したもの、とする控訴人の主張は、火なわ銃については当てはまるかも知れないが、それ以外の古式銃砲については、当たらないものと言うことができる。しかも、被控訴人主張のとおり、徳川幕府末期からは、火なわ銃以外の古式銃砲が日本に伝えられるようになつたのであるから、火なわ銃以外の古式銃についてはむしろ、徳川末期以降こそが製造或いは伝来の始まりということになり、かえつて慶応三年で区切ることの方が不合理であるというべきである。

3  「昭和五〇年三月一七日文部省令第四号による銃砲刀剣類登録規則改正の理由」について

控訴人の主張する古式銃の三要件は、火なわ銃についてのみ該当するものである(3の要件は別として)。

なお控訴人は、昭和四〇年の旧規則の制定時においては、外国製銃砲が新たに輸入される事態は予想していなかつた旨主張し、そうでなければ必ず旧規則に同趣旨の文言が加つたはずである旨主張する。外国製銃砲の輸入が全く予想し得なかつた、とする点については大いに疑問を抱かざるを得ないが、仮りにそうだとしても、その後の運用の実態を見ると、登録規則と同趣旨の文言が昭和四〇年当時の旧規則に加つたはずとの主張は、全く説得力を欠くものである。つまり、制定後の旧規則の運用は、外国製銃砲については、当初から古式銃砲であれば殆んどフリーパスと云える状態であつた。それこそ、正に旧規則の予定した事態であると云つても決して言い過ぎではない。従つて、もし、登録された古式銃(本来は登録を許されない模造品が大部分であつたが)による暴力団の抗争事件という事件が発生していなかつたとしたら、旧規則の改正ということは全く考えられなかつたはずである。そして、もしこのような事件を防止する目的であれば、模造品すら古式銃砲として登録を許していた従来の鑑定の実態をチエツクすれば足りることである。

4  本件短銃の銃砲発達史上の資料的価値について

本件短銃は、ピン打ち式銃としては最末期に属する意味で正に資料的価値がある。すなわち一八七八年以降においてもなお製造されていたという事実を示すという点で貴重な資料なのである。ピン打ち式銃は一八六〇年代ころまでの間に次第に実用性を失い、現代銃に取つて替られた歴史的経緯があるとしても、一八七〇年代に入り一斉にピン打ち式銃が姿を消したとも考えられず、一八六〇年代から一八七〇年代における銃砲製造の技術革新は世界的規模では少くとも一〇年以上かかつたものと見るのが自然である。しかも一八七八年以前にピン打ち式銃が完全に実用に供せられなくなつたとの証拠も存しない。却つて本件短銃を骨とう的な価値のある古式銃砲であり、我が国に伝来している数も少く、銃砲発達史上参考になる型式であるとする見解もある。したがつて、本件短銃は、ピン打ち式銃というそれ自体すでに使命を終ろうとしている型式の最末期に属する意味で、貴重な資料的、骨とう的な価値を有する古式銃砲である。

控訴人主張のように文化財をわが国と直接かかわりのあるものに限定する考え方は誤りであり、旧規則の文言自体からも、外国製銃砲にあつては「おおむね慶応三年以前に」「わが国に伝来していたもの」との解釈を導き出すことはできず、現実にも旧規則は一〇年間にわたり、右のような解釈を問うことなく運用されてきたものである。登録規則は旧規則の明確化にすぎないとの控訴人の主張は認めることはできない。

第三証拠〈省略〉

理由

一  被控訴人が控訴人に対し、昭和五三年一月一一日付をもつて、その輸入に係る本件短銃を銃刀法一四条一項所定の古式銃砲として登録を受けたい旨申請したところ、控訴人が同年三月二日付をもつて、本件短銃は登録規則四条一項所定の鑑定基準に合致しないとの理由で、右申請を却下する旨の本件処分をしたことは、当事者間に争いがない。

二  そこで、本件処分の適法性について判断する。

1  銃刀法一四条一項及び登録規則四条一項の制定経過並びに銃砲の歴史等についての判断は、原判決理由二1の(一)ないし(三)及び同2の前段説示(原判決四一枚目表六行目の冒頭から同四八枚目裏一行目の「された」まで)と同旨であるから、これを引用する(但し、原判決四二枚目表九行目の「及び」の次に「当審証人所荘吉、原審」を、同四六枚目裏四行目の「であるが」の次に「、徳川幕府末期までに我が国において製造され又は我が国に伝来して実用に供され」を、同五行目の「銃砲は」の次に「、我が国の歴史特に合戦史」を、同八行目の「を許し」の次に「、我が国の文化財を保護する観点からこれを文化財として保存」を、同四七枚目表三行目の「解される」の次に「ことは後記(二)、(2)に判示するとおりである」を、同九行目の「段階の」の次に「ものであつて、年代的には慶応三年(一八六七年)以前の考案になる」をそれぞれ加え、同四七枚目裏一行目の「この規定」を削除し、「その実施に伴い、文化財保護委員会事務局長は昭和四〇年七月一五日付をもつて後記(二)、(2)記載のとおりの事務局長通知を各都道府県教育委員会教育長宛に出しており、右旧規則の規定及び事務局長通知」を加え、同四八枚目表六行目の「しかるに」を「その後」と改める。)。

2  登録規則四条一項の効力について、被控訴人は右規定が銃刀法一四条の趣旨を逸脱するものである旨主張するので、この点について判断する。

(一)  銃刀法一四条は、美術品若しくは骨とう品として価値のある古式銃砲の登録の許否については、登録審査委員の鑑定に基づいてすることとし、鑑定の基準等についての具体的細目は文部省令で定めることとしており(同条三、五項)、登録規則は右法律の委任に基づいて制定されたものであるから、登録規則において鑑定基準を定めるには、銃刀法一四条一項が古式銃砲の登録を許した趣旨に則つて定めることを要するのは言うまでもないところであり、銃刀法一四条一項及び登録規則四条一項の解釈に当つては、古式銃砲の定義の範囲内でこれを合目的々に解釈すべきものである。そして右古式銃砲の定義については、文化財保護法二条一項一号が有形文化財の定義として「我が国にとつて歴史上又は芸術上価値の高いもの」と規定している趣旨並びに古式銃砲が我が国古来の伝統的文化財ではなく、天文一二年(一五四三年)種子ケ島に渡来以後、幕末慶応三年(一八六七年)ころまでの約三二〇年間に限つて合戦等の用に供されたものであるという古式銃砲の我が国における歴史的性格及び右各法規の制定の経緯等充分考慮しなければならないものというべきである。

(二)  ところで、登録規則は旧規則四条一項本文を改正し、古式銃砲の鑑定基準について、日本製銃砲は「おおむね慶応三年以前に製造されたもの」、外国製銃砲は「おおむね慶応三年以前に我が国に伝来したもの」とする旨の要件を定めているが、このように古式銃砲の鑑定基準として、その製造及び伝来時期を「おおむね慶応三年以前」と定めることは、次の理由から銃刀法一四条一項の趣旨に合致し合理的理由があるものということができる。

(1) 成立に争いのない甲一号証の二、乙三号証、原審証人石藤守雄、同岩堂憲人、当審証人所荘吉の各証言及び弁論の全趣旨によると、次の事実が認められ、他にこの認定に反する証拠はない。

火なわ銃以外の古式銃砲が我が国に伝来したのは、天保年間に我が国近代砲制の祖といわれる高島秋帆が、中国におけるアヘン戦争の情報を得て、徳川幕府をして国防のため洋式銃砲を輸入せしめたのを初めとして、幕末動乱期に諸藩が欧米各国から多種多様の古式銃砲を購入しこれを輸入したことによるものである。また国内においてもこれら外国製銃砲を基にして改良を加えた古式銃砲の製造がなされた。その後これらの古式銃砲は、国際的には文久三年(一八六三年)の薩英戦争、元治元年(一八六四年)の下関戦争に使用され、国内的には蛤御門の変(元治元年)、第一、二次長州征伐(元治元年、慶応二年)、戊辰の役(慶応四年~明治二年)等の幕末、明治維新の国内での主な合戦に使用された。明治二年に戊辰の役最後の箱館五稜郭の戦(箱館戦争)が終結した後は、合戦等における実用性が失われ、また明治新政府下で個人が古式銃砲を自由に輸入することはできなくなつたこともあつて、新たに古式銃砲が輸入されることはなくなり、遅くとも明治五年以降に我が国に輸入された古式銃砲が存在することは殆んど考えられないという状況にあつた。

また、明治五年三月八日付太政官布告「銃砲取締規則」により民間所有の銃器の調査、登録が行なわれ、その際登録銃器には、いわゆる壬申刻印が打刻されたが、当時存在した古式銃砲はおおむね慶応三年以前に製造ないし伝来したものであると推認してほぼ間違いないことから、右壬申刻印の有無により、少くとも民間所有の古式銃砲については、その製造ないし伝来時期の識別が容易であるとされている。

さらに、明治四年の廃藩置県により、諸藩が幕末期に輸入した古式銃砲は、明治政府に徴収されるとともに、同五年陸軍発足に伴い近代式銃砲による装備がなされ、当初英国製スナイドル銃を主用としながら同一三年には国産初の近代式軍用銃である村田銃が陸軍の正式銃として採用される等明治新政府による一連の軍備近代化の流れの中で、古式銃砲は遅くとも明治五年ころまでにはその実用性を全く失うに至つていた。

ところで、銃砲の製造は長い年月をかけて漸次改良を重ねられてきているため、単に一つの構造制式をもつて古式銃と現代(近代)式銃とを区別することは困難であるが、前記のような我が国における古式銃砲が実用に供された歴史的背景及び構造的にも明治五年以降に製造ないし伝来した銃は、幕末期の銃に比して相当変化していること等から、我が国銃砲史上は、古式銃と現代式銃との区別としては、年代的区分により、おおむね慶応三年(一八六七年)以前に考案されたものを古式銃とし、明治元年(一八六八年)以後の考案になるものを現代式銃とするのが最も常識的な考え方であるとされている。

(2) 成立に争いのない乙九ないし一一号証の各一、二、同一二号証の一ないし四、同一三、一四号証、同一五号証の一、二、同一六ないし一九号証、同二〇号証の一、二、同二二号証の一、二、同二三ないし二五号証(乙九号証の二、同一二号証の一ないし四、同一三、一四号証、同一五号証の一、二、同一六ないし一九号証は原本の存在、成立とも)、当審証人本間順治、同所荘吉の各証言及び弁論の全趣旨によると、銃刀法が古式銃砲について登録制度を採用するに至つた歴史的経緯が、前記第二、一の控訴人の主張1記載の「登録制度採用の歴史的経緯」のとおりであることが認められ、右認定に反する証拠はない。そして前掲各証拠及び右登録制度採用の歴史的経緯を総合すると、次の事実が認められる。

昭和二五年一一月一五日付の銃砲刀剣類等所持取締令(昭和二五年政令第三三四号)の制定により、同令七条一項において、「文化財保護委員会は、美術品若しくは骨とう品として価値のある火なわ銃式火器又は美術品として価値のある刀剣類の登録をするものとする。」と定め、美術品若しくは骨とう品として価値のある火なわ銃式火器については、凶器としての取締規制の対象から除外し、我が国の文化財保護の見地から、これを我が国の文化財の一つとして取扱い、従来の都道府県公安委員会の所持許可制から文化財保護委員会(文化庁の前身)の登録制に改められ、何人も右登録によりこれを所持し得ることにするとともに、都道府県教育委員会が右登録事務を取扱うことになつた。その後右登録制度は昭和三三年銃刀法を経て昭和四〇年改正の銃刀法に引継がれて現在に至つている。

そして、登録制度の運用上、右登録の対象となる火なわ式以外の古式銃砲は、イ 我が国の歴史特に合戦史、銃砲史にとつて資料的価値を有すること、ロ 銃として用いられた時期は幕末までであること、ハ 現在では武器としての役目が全く失われていることの三つの要件を具備していることを要するものとの解釈が当然のこととして維持されてきた。

(3) ところで、成立に争いのない乙二七号証の二、同二八号証、原審証人石藤守雄、当審証人濱田隆、同所荘吉の各証言及び弁論の全趣旨によると、次の事実が認められ、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

昭和四〇年法律第四七号による改正で、昭和三三年銃刀法一四条一項の「美術品若しくは骨とう品として価値のある火なわ式銃砲」とある部分が、「美術品若しくは骨とう品として価値のある火なわ式銃砲等の古式銃砲」と改められ、初めて「古式銃砲」という用語が条文に用いられたのであるが、右改正の趣旨は、従来古式銃砲のうち火なわ式銃砲のみが登録の対象とされていたところ、火なわ式以外の火打ち石式、管打ち式、かに目式等の古式銃砲にも、美術品若しくは骨とう品として価値を有するものがあり、かつ、前判示のとおりおおむね慶応三年以前に製造又は伝来し、幕末、明治維新の国内の主な合戦に使用され、現在実用に供されていないものであるのに拘らず、従来これらの古式銃砲は登録することができなかつたことから、火なわ式銃砲と同様に登録の対象に加え、我が国の文化財として保存活用を図ろうとしたものである。

このように、昭和四〇年の銃刀法改正により火なわ式銃砲のほか火打式、管打式、かに目式等の古式銃砲が登録の対象に加えられた結果、登録制度の対象範囲が拡大されたけれども、古式銃砲の製造及び伝来時期については、これを幕末期までとする従来の登録制度の運用上の解釈ないし取扱は、そのまま踏襲されていたものである。もつとも昭和四〇年改正による銃刀法一四条一項及び旧規則四条一項の各条文上は、古式銃砲の製造及び伝来時期について明示されていないけれども、これは右各法規において、古式銃砲の製造及び伝来時期を幕末期すなわち慶応三年(一八六七年)以前とする従来の解釈ないし取扱を当然に前提としたものであると解される。このことは成立に争いのない乙八号証の前記事務局長通知によつても推認し得るところである。右事務局長通知は、古式銃砲の鑑定基準として、「ア(火なわ式銃砲等の古式銃砲の鑑定基準)新たに登録の対象に加えられる火なわ式銃砲等の古式銃砲の鑑定にあたつては、次の種類ごとの特徴によること。〈1〉火なわ式銃砲 さきごめ式のほかもとごめ式のものがある。〈2〉火打ち石式銃砲 発火薬(口薬)を火打ち石によつて点火し、火薬を爆発させるもの(わが国への伝来は、寛永二〇年(一六四三年)である。)。〈3〉管打ち式銃砲 雷汞をつめた雷帽を火門にかぶせ、これを打撃によつて発火させ、火薬を爆発させるもの(嘉永五年(一八五三年)ペルリ来航のときに伝来し、安政年間(一八五四~一八五九年)に多数輸入された。)。〈4〉紙薬包式銃砲 もとごめ式で弾丸に雷汞を装し、さらにその後部に紙薬包を通した撃針により雷汞を打撃し、発火爆発させるもの(江戸時代末期に輸入されたシヤスポー銃(フランス)、ドライゼ銃(ドイツ)、スナイドル銃(ドイツ)がこの種類に属する。)。〈5〉ピン打ち式銃砲 もとごめ式で金属薬きようを用いるものであるが、かに目状の撃針を薬きよう後端上部に突出させ、これを打撃によつて発火爆発させるもの(一八二〇年にフランスで考案され、江戸時代末期に輸入されたが、撃針にふれるとすぐ発火し、危険が多いためあまり用いられなかつた。かに目式銃砲またはピンフアイヤーともいう。)。イ 改正登録規則第四条第一項第二号の「前号に掲げるものに準ずる銃砲」とは、アに掲げるもの以外のものでおおむね一八六七年(慶応三年)以前に製造された古い銃砲をいう。(以下略)」と記載されており、右事務局長通知アに記載されている古式銃砲は、いずれも幕末期までに伝来したものであることが示されているうえ、同イには、旧規則四条一項二号所定の「前号に掲げるものに準ずる銃砲」とは、アに掲記するもの以外のもので、おおむね一八六七年(慶応三年)以前に製造された古い銃砲をいう旨を明示していることに徴しても、昭和四〇年の前記法規改正が、古式銃砲の製造及び伝来時期について幕末期、慶応三年(一八六七年)以前とする従前の解釈ないし取扱を当然に前提としたものであることを推認することができる。

(4) ところで、原審証人石藤守雄、当審証人所荘吉の各証言及び弁論の全趣旨によると、旧規則四条一項において、外国製古式銃砲について「おおむね慶応三年以前に我が国に伝来したもの」とする旨の伝来時期を明示する規定を設けなかつたのは、昭和四〇年当時、外国製古式銃砲が我が国に新たに輸入されるというような事態は、全く予想されなかつたことによるものであることが認められ、若し、当時そのような事態が予想され、かつ登録鑑定に際し疑義を生ずるおそれがあつたならば、当然旧規則の制定に際し、現行登録規則と同旨の文言をもつてこれが明示されるに至つたであろうことは、容易に推認されるところである。

ところが、原本の存在、成立ともに争いのない乙四号証、同五、六号証の各一、二、成立に争いのない乙七号証の一、二、原審証人足立興二、同石藤守雄、当審証人濱田隆、同所荘吉の各証言及び弁論の全趣旨によると、昭和四四年ころからいわゆるアンテイクブームが起り、外国製古式銃砲が輸入されはじめ、同四八年ころから主に輸入業者によつて輸入される外国製古式銃砲が増大し、それに伴い古式銃砲の登録件数も、昭和四〇年前半では年間約五〇〇件程度であつたものが、同四八、九年には二〇〇〇件を超えるほどに急増し、しかも右増加数の殆んどが外国製銃砲であるという旧規則制定当時には全く予想しなかつた新たな事態が生ずるとともに、登録制度の運用上も慶応三年以前に伝来したものではなく近年外国から輸入された古式銃砲が登録の対象として取り扱われるなど、登録制度の趣旨及び従来の古式銃砲の解釈ないし取扱と異なる事例が発生し、さらにその後昭和四九年七月大阪市西成区で暴力団員の短銃発射事件が発生し、その際使用された銃一丁が一八〇〇年ころの米国製古式銃(シヤープス二二口径紙薬包式小型四連発銃)であり、さらに右事件の捜査過程で外国製模造古式銃(レミントン三六口径管打ち式銃)一丁が領置されたが、これらはいずれも近年我が国に輸入されて古式銃砲として登録されたうえ、暴力団の手に渡つていたことが判明し、また、同年九月神奈川県警察本部において、東京都多摩市の右翼団体幹部宅を銃刀法違反容疑で捜査した際、近年輸入された未登録の外国製模造古式銃砲(レミントン四四口径モデル一八五レボルバー式六連発銃)一丁を押収し、さらにその入手経路の捜査過程で近年輸入され古式銃砲として登録ずみの同種の外国製模造ないし変造古式銃砲二二丁が発見される等の事件が発生したことから、これらの新たな事態に対処し、かつ、銃刀法一四条一項の趣旨に基づく適正な登録制度の運用を図るため、旧規則を改正し、登録規則四条一項冒頭において、「日本製銃砲にあつてはおおむね慶応三年以前に製造されたもの、外国製銃砲にあつてはおおむね同年以前に我が国に伝来したもの」なる文言をもつて、古式銃砲の製造及び伝来時期についての鑑定基準を明示し、これにより銃刀法一四条一項及びこれに基づく古式銃砲の登録制度の趣旨を明確にするに至つたことが認められる。

(三)  したがつて、登録規則四条一項が、銃刀法一四条一項所定の登録制度の対象となり得る外国製古式銃砲の鑑定基準の一つとして、「おおむね慶応三年以前に我が国に伝来したもの」と規定したことは、銃刀法一四条一項の趣旨に合致し合理的理由があるものであつて何らこれを逸脱するものではなく、また、同法一四条五項の委任の範囲を超えるものではないものというべきである。

3  本件処分が、登録規則四条一項所定の鑑定基準に合致しないとの理由から、被控訴人の本件短銃の登録申請が却下されたものであることは当事者間に争いがない。

原審証人石藤守雄、同曽根寛の各証言及び弁論の全趣旨によると、本件処分の具体的理由は、本件短銃が米国製であつて、慶応三年(一八六七年)以前に我が国に伝来したものではないこと及び一八六八年以降に製造されたものであることが認められるところ、本件短銃が一八七八年(明治一一年)以降の製造にかかるものであることは当事者間に争いがなく、原審証人マリオ・ローレンス・サクリパンテの証言によると、本件短銃は被控訴人が輸入した外国製ピン打ち式銃であり、右輸入の時期は昭和五二年一二月ころであることが認められるから、本件短銃は製造及び伝来時期のいずれの点からみても、銃刀法一四条一項及び登録規則四条一項所定の古式銃砲に該当しないものである。したがつて、控訴人が登録規則四条一項所定の鑑定基準に合致しないとして、被控訴人の本件短銃の登録申請を却下した本件処分は、適法かつ相当なものというべきである。

4  被控訴人の憲法違反の主張についての判断

(一)  憲法一三条違反の主張について

被控訴人主張のように、仮に美術品、骨とう品として価値ある古式銃砲の所持が、憲法一三条所定の個人の幸福追求の権利に含まれるとしても、同条にいう個人の幸福追求の権利は、公共の福祉のため必要のある場合には相当の制限を受けるものであるところ、昭和五〇年の旧規則改正の契機及び趣旨は、前記2、(二)、(4)判示のとおりであつて、合理的理由があるのみならず、それは銃刀法(一、三、一四条)の趣旨の徹底化並びに古式銃砲の登録制度運用の適正化を図る目的の下に、銃砲による危害予防並びに文化財としての古式銃砲の保護という公共の福祉に適合させるためになされたものであることは明らかである。したがつて、登録規則四条一項は、古式銃砲の所持に関して、公共の福祉のため必要かつ合理的な制限措置であるというべきであるから、登録規則四条一項が憲法一三条に違反することを理由として、本件処分が違法である旨の被控訴人の主張は失当である。

また、銃刀法は銃砲の所持を原則として禁止し(同法三条一項本文)、例外的に美術品、骨とう品として価値のある古式銃砲については、同法一四条所定の登録制度によつてその所持を認めることとしたものであり、その趣旨は古式銃砲の史料的ないし美術品又は骨とう品としての価値に着目し、我が国の文化財として国民に鑑賞愛蔵の機会を与えることにより、その保存活用を図ることにあるものといえるから、同法一四条一項所定の登録制度の対象となり得る古式銃砲の所持は、国民がこれらの古式銃砲を右趣旨の下に自ら継続的に所持する場合に限られるものというべきである。

しかるに、原審証人マリオ・ローレンス・サクリパンテの証言及び弁論の全趣旨によると、被控訴人は銃砲等の輸入、販売を業とする株式会社であり、被控訴人は憲法一三条所定の個人の幸福追求の権利として、自ら銃砲の文化財としての価値を享受する趣旨の下に本件短銃を所持するものとはいえないものというべきである。したがつて、憲法一三条を根拠として、本件処分が違法である旨の被控訴人の主張は、この点においても失当である。

(二)  憲法二二条一項違反の主張について

憲法二二条一項所定の職業選択の自由は、公共の福祉に反しない限り認められるものであるから、その職業活動がもたらす幣害が社会公共の安全と秩序維持の見地から看過し得ない場合には、公共の福祉のためにその幣害を防止ないし除去するための必要かつ合理的な範囲内において、これを規制し得ることは当然である。

これを本件についてみるに、旧規則四条一項改正の契機及び趣旨は、前記2、(二)、(4)及び4、(一)判示のとおり旧規則四条一項制定後新たに生じた事態に対処するため、銃刀法一四条及び旧規則四条一項による登録制度の対象たる古式銃砲とは似て非なる銃砲による犯罪等の危害予防並びに文化財として真に保護に価する古式銃砲の保存活用という公共の福祉のため、古式銃砲の登録基準をより明確にして、古式銃砲の登録制度の適正な運用を図る目的の下になされたものであるから、登録規則四条一項による右規制は公共の福祉に適合するための必要かつ合理的な制限措置として肯認し得るものであつて、その結果被控訴人の職業選択ないし活動の自由が規制されることになつたとしても、それは公共の福祉のための合理的な制限措置の結果として受忍すべきものである。したがつて、登録規則四条一項が憲法二二条一項に違反することを理由として、本件処分が違法である旨の被控訴人の主張は失当である。

(三)  憲法三一条違反の主張について

法例一条一項は、「法律ハ公布ノ日ヨリ起算シ満二十日ヲ経テ之ヲ施行ス但法律ヲ以テ之ニ異ナリタル施行時期ヲ定メタルトキハ此限ニ在ラス」と規定し、法律の施行期日の指定は、当該法律の実情に合わせて立法府の裁量によりこれを行い得ることを肯認している。このことは政令等についても同様であると解されるから、法令の公布から施行までの期間については、それが一見明白に違法でない限り、施行期日の指定の当否は、これによつて当該法令を憲法三一条に違反し無効とするものではないと解すべきところ、旧規則の改正は、前記2、(二)、(4)判示のとおり旧規則制定当時は予想されなかつた新たな事態に対処するため、銃砲による危害予防並びに文化財としての古式銃砲の保存活用の見地から、古式銃砲の登録制度の適正な運用を図るため登録規則四条一項を規定し、古式銃砲の鑑定基準を明確にしたものであつて、その必要性、緊急性に鑑み、所管行政庁たる文部省の裁量によつて公布日を昭和五〇年三月一七日、施行期日を同年四月一日と定められたものであるから、右施行期日の指定には何ら違法不当はないものというべきである。したがつて、登録規則四条一項の改正手続が憲法三一条に違反することを理由として、本件処分が違法である旨の被控訴人の主張は失当である。

三  以上の次第で、被控訴人の本訴請求は、これを失当として棄却すべきであり、これと趣旨を異にする原判決は失当であつて、本件控訴は理由があるから、民訴法三八六条に則り原判決を取り消し、被控訴人の本訴請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 中島恒 塩谷雄 涌井紀夫)

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